ある少女の旅立ち
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彼女にはじめて会ったのは、小学校5年生に上がる少し前の春休みだった。当時の僕はリー○進学塾
恵那校舎の校舎長をしており、小中等部ができて1年がたった2004年の春頃だった。まだ小中等部に
は個別指導しかなく、彼女はお兄さんが中3の冬期講習週に来てくれたこともあり、春期講習に参加し
てくれたのだ。その後も週に2回火曜と木曜に通ってくれることとなったが、その当時は言うことをよく聞く、
素直で子供らしい可愛らしさを持った少女であった。ちょうど1年が経った頃、恵那校舎は集団指導の
校舎へとリニューアルされることになった。すると、その少女は当時通っていた珠算を辞め、○ード進学塾
の集団指導を選んでくれた。集団指導への切り替えを進めていた僕たちスタッフに、大きな勇気を与えて
くれたのを今でも鮮明に覚えている。集団指導になっても彼女は宿題を手抜きすることもなく、まじめに取
り組んでくれた。

 やがて、中学校に入り、新1年生が部活動を始める頃、生徒にアンケートを取り、どんな部活動に入っ
たかを調査していたときのこと、彼女が吹奏楽部を選んだことを知った。彼女の足には入学当初から包帯
が巻かれており、成長痛でひざが痛いということだった。それで運動部は見送ったのだろうと思った。吹奏楽
部ではフルートを担当し、どちらかいえば上品なイメージだった。吹奏楽部は当時の彼女のイメージにぴった
りな気がしたものだ。
 僕がリ○ド恵那校舎を離れる前はだいたいこんな感じだった。3年余り経って、恵那に当塾“学習空間
Wing”を開校して3ヶ月近く経った9月の下旬頃に彼女と再会して驚いた。何よりもまず見た目の変化だ。
上品にフルートを奏でていた頃の面影はほとんどなく、全身日焼けして赤黒く、女の子に使う形容ではない
が、たくましく、頼もしい感じになっていた。聞けば恵那高校理数科に合格できたものの、高校に入ってから
は、恵那高で1番練習が厳しいボート部に入り、女子ではエース級だという。実際に強化選手としてハワイ
遠征メンバーに選ばれたり、ジュニアオリンピックで熊本県、インターハイで岩手県、国体で沖縄(2年の
とき)など忙しく飛び回ったりと、ボートではめざましい活躍であり、その活躍が認められスチューデント・オブ・
ザ・イヤーにも選ばれた。3年生ではとうとう岐阜県のチャンピオンとなった。
ただし、その反面、学習において
は勉強時間の絶対量が完全に不足していた。残念なことに部活にのめりこむあまり、勉強は二の次であ
った。それでも彼女は性格的に真面目であり、勉強時間の必要性はよくわかっていたので、部活を引退
したらとにかく勉強すると約束していた。が、8月中旬で部活を引退してもしばらくは目標を失ったのか、
学習への取り組みはさほど真剣なものではなかった。やっと目を覚ましたのは放課後のセンター演習が始
まった10月のことだった。それでも志望校への道はまだ遠く、合否判定も散々であった。

 そんな彼女に転機が訪れた。推薦入試で滋賀大学の教育学部を受けることになったのだ。しかも、入試
科目は小論文と面接で、学力はあまり関係ない感じの推薦入試である。僕個人としては、はじめに受験す
ると聞いたときから受かると確信していた。面と向かっては言えないが、彼女は性格や人間的な魅力など学力
以外の部分ではほぼ完璧であり、誰からも好かれるタイプである。もちろん僕も、彼女のことは大好きである
し、学力以外の部分では最大級の評価をしている。そのうえ、僕を含めて関西の人間にありがちな自己主
張の強さが彼女にはなく、関西人の多いであろう滋賀大学受験者の中ではかえって目立つ存在になるので
はと思えた。
 後期の中間テストが終わった12月2日、歓喜のときが訪れる。予想通り合格である。当塾開校以来、初
の国立大学合格者が彼女だったのはきっと偶然ではない。デニムのキュロットスカートではじめて塾に来た10歳
の少女は
もうすぐ大学生となり、関西へと旅立つ。彼女の人生で初めて塾に来た日から、最後に塾に来る
であろうその日まで、ずっと一緒にいれたことは、塾の講師としてはこれ以上ない幸せであり、最後を合格で締
めくくれたことは本当によかったと思う。
彼女と、彼女の保護者さまへの感謝は、ありがとうと何度いっても足り
はしない。3年生に上がってすぐに、友人が退塾したときも、変わることなく僕の指導を信じてついてきてくれた。
果たして彼女は僕の指導に満足してくれたのだろうか。謙遜でも誇張でもなく、間違いなく僕が彼女にもらった
もののほうがはるかに大きい。今まで本当にありがとう。

 彼女の大学生活は充実したものになることだろう。きっと春先の琵琶湖は彼女を優しく包んでくれる。反面、
彼女のいなくなった後のことを想像すると寂しくて、寂しくて言いようのない空虚さと喪失感である。当塾にとっ
ても、僕個人にとっても、彼女の存在は大きかった。でも、もう今の僕が彼女にしてあげられることは、心配ない
よと送り出してあげることだけになってしまった。僕もそれがどんなに寂しく、どんなに辛くても、前に進まなくては
ならない。笑ってさよならをいえるか一抹の不安を覚える今日この頃である。

・・・後日談
 滋賀へと引っ越す前日、彼女は母親と共に挨拶に来てくれた。取り留めのない話をして別れ際、自分でも
理由はわからないが、大泣きしてしまった。他に生徒がいなかった事もあり、油断していたのは間違いないが、
自分でも驚いた。年齢的なものなのか近年、涙腺がゆるくなっていて、テレビドラマなどでも時折涙を流すこと
もあるにはあるが、それとは比較にならない大泣きであった。
 彼女には、充実した大学生活を送ってもらいたいし、いい教員になってもらいたい。もう僕の存在は彼女の
頭の中から忘れられているかもしれないが、僕はいつまでも応援しているよ。今まで、本当にありがとう。




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